旧・白鳳丸の思い出

 次の文章は,覚え書き(日記のようなもの)として書いたもので,他のメディアで公表したものではないが,ここに掲載して公表することにした。

 つい先日,JAMSTECの海洋研究船「白鳳丸」が高知港に入港した。計画では高知港に入港する予定はなかったが,研究者の交代と機器の修理のために臨時に入港したのだそうだ。私の記憶にある限りでは,白鳳丸の高知港入港は先代の白鳳丸が1988年に入港して以来のことである(あとで聞くと,その後,1度,乗員の怪我の治療のため高知港に緊急入港したことがあったとのことである)。高知港に停泊している白鳳丸の姿を見ながら,先代の白鳳丸のことを思い出していた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 旧・白鳳丸は,日本政府が1967年に海洋国日本の威信をかけて建造した日本初の大型海洋研究船である。総トン数3225トン,巡行速力12ノット。大きさのわりに足が遅いのは,純電気推進船(エンジンで発電機を回して発電し,その電力をモータに供給してプロペラを回す形式の船)だったためであろう。文部省が保有し,東京大学海洋研究所が運行を担当した。当時としては最新鋭の多目的観測船であった。

 私と白鳳丸の出会いは,1984年の日本周辺の調査(KH-84-3)のときである。横浜港から函館港まで乗船し,主に日本海溝の調査を行った。白鳳丸としての乗船はこの1回だけであった。このときは出港後2日間,船酔いのためほとんどベッドから出ることができず,差し入れの桃缶とおにぎりだけで命をつないだ。また,その後も勝手が分からないため,いろいろな人に迷惑をかけてしまった。

 この種の研究船は,だいたい20年程度で新船と交替することが多いという。きちんと整備すれば船の寿命自身はもっと長い。しかし,観測技術の進歩に伴う機器類の更新や観測・研究の多様化・複雑化に対応するには常に改修が必要であり,建造後20年もたつと小手先の改修では対応できなくなるのだろう。実際,白鳳丸は,ラボが手狭になった,クリーンルームやRIを使用できるラボがない,(研究機材用)倉庫のスペースが狭い,アンチローリングタンクが邪魔,など,小手先の手直しではどうしようもない要望が多数出されていたようだ。

 旧白鳳丸へのクリーンルームの設置については,驚くべき解決法があった。それは組立式クリーンルームである。採水する舷側(右舷)に近い小部屋一室を利用して,その中にステンレス製のクリーンルームを組み立てるのである。ご存じの方もいると思うが,船の船室は一般に直方体ではなく,船の外壁に沿って微妙にカーブしていたり,台形のような形状になっていることが多い。しかも,もともと船室であるから,出入り口はドア1枚である。したがって,その組立式クリーンルームは,すべての部品をドアからはいる大きさにカットして,しかも直方体でない形状の部屋の壁にきっちりと収まるように設計されたものであった。組み立てに立ち会ったことがあったが,接合部がなかなかぴったりと合わず,ずいぶん組み立てに苦労していたという印象を持っている。もちろん,新白鳳丸にはクリーンルームは第4研究室として装備されている。

 旧白鳳丸で甲板を占領して「目の敵」にされていたアンチローリングタンクは,新白鳳丸には装備されていない。アンチローリングタンクがどの程度有効だったのかは知らないが,アンチローリングタンクのない新白鳳丸は,旧白鳳丸よりもやはり少し揺れが大きいように思う。なお,蛇足であるが,揺れを抑える主目的は,乗り心地をよくするためではなく,船内での作業をやりやすくするためである。

 新白鳳丸にはラボが全部で10室ある(詳細は白鳳丸の概要を参照)。このうち,設計時には必要と思われたが,現在では必要性が低くなってしまったラボがある。それは,第8研究室(計算機室)である。新白鳳丸建造当初は,この研究室には数台のワークステーションが設置されていて,主に物理科学系の計算が行われていた。しかし,現在ではノートパソコンでさえ建造当時のワークステーションの能力を遙かに上回る性能になっており,ほとんどの航海では,データ処理用のコンピュータはその都度研究者が持ち込んで他の研究室や居室に設置して使用するようになった(第8研究室は居室からは少し遠い位置にあるので,いちいち行くのが面倒)。このため,第8研究室は当初の目的で使用されることはあまり多くないようである(いや,そんなことはない!という方がいるかも知れない)。

 研究機材用倉庫については,旧白鳳丸の倉庫の使い勝手が極めて悪かったことから,新白鳳丸の設計の際に議論になったと聞いている。
 一般に物理系の研究航海では,海流(ドップラー流速計など)や海底地形の計測用機材(シービームなど)などはもともと装備として研究船に組み込まれており,係留系などの持ち込み観測機器類についてもそれほど多くはないし,試料を採取することもないので,倉庫はほとんど必要ない(というと言い過ぎかも知れないが)。一方,これとは対照的に,荷物が多いのは化学系の研究航海である。というのは,主として,海水などの試料を持ち帰るための試料瓶を大量に積み込むためである。物理系の航海の場合は,極端な話,データを入れた磁気テープ(今なら,DVD-Rということになろうか)を持って帰るだけということもあり得る。しかし,化学系の航海では,船上で分析操作ができない場合,海水をそのまま,あるいは適当な前処理をして持ち帰らざるを得ない。そこで,出発前の積み込み時には大量の空容器を積み込み,帰港したら大量の海水入り容器を積み降ろすことになる(積み込み・積み降ろし作業者はこれを「行きはよいよい,帰りは怖い」という)。そこで,倉庫など無駄なスペースだという主張と,広い倉庫が絶対に必要だという主張が対立することになる。多目的船の設計のむずかしさである。
 最近は分析機器の高感度化や船上分析装置の開発が進み,分析に必要な試料が少量になったり,試料を持ち帰らなくてもよいというケースも増えたので,20Lのポリタンクを大量に積み込んで海水を持ち帰るということは少なくなった。しかし,少量の試料で済むといっても1度に採水できる試料量は採水器の体積(よく使うのは12Lのニスキン型)で決まるため,試料の有効利用という観点から分析項目は増える傾向にある。このため,小さな試料瓶の個数は増加傾向にある。また,最近は,長期の航海を2つに分割して,前半と後半で研究者(そして,研究課題も)入れ替えるというケースが多くなった。当然,使用しない機材はほとんどすべて倉庫に入れておくことになる。結局,化学系の研究航海では,相変わらず,倉庫の通路にまでコンテナが積み上げられているという状況になり,倉庫スペースがかなり広くなった新白鳳丸でも,相変わらず倉庫が狭いという悩みが続いている。

 旧・白鳳丸は1989年に代替え新船の白鳳丸(旧船と同じ名前となった)と交替した後,民間((株)海洋バイオテクノロジー研究所)に払い下げられて「蒼玄丸」と名を変え,主に海洋観測のための傭船として活躍した。ちなみに,新・白鳳丸(総トン数3991トン,巡航速度16ノット)は,2004年に東大海洋研からJAMSTECに移管されたが,現在も研究船として第1線で活躍中である。そろそろ次期観測船をどうするのかという話が出始めているようであるが,単なる1利用者に過ぎない私の現在の立場ではまだ具体的な話は全く聞こえてこない。

 縁があって,蒼玄丸には3度の乗船機会があった。1990年に旧白鳳丸乗船以来6年ぶりに乗船した蒼玄丸は,おそらく払い下げ後の整備のための手入れが必要最小限に留められていたのであろう,手入れが行き届いていると感じる部分とそうではない部分が混在しているように感じた。船長の井村氏はかつては捕鯨船の船長も務めたことがあったそうで,気さくな中にも意志の強さを感じさせる好漢だった。この航海では,私自身の研究のための試料採取とは別に,大学の卒研生に頼まれて,いくつかの船内居室のダニの採取を行った。持ち帰って調べてみると,陸上の民家にいるダニと同じ種類のダニが多数見つかったとのことであった。おそらく,船を出入りする人にくっついて入りこんできたものが繁殖したのだろうということだった。このときは,小笠原諸島父島で下船することとなったが,岸壁があいておらず,渡船を使っての下船となった。小笠原-東京間の定期航路は週2便しかなかったので,2日ほど父島で足止めされたが,その間,レンタルバイクで島の中をめぐったり,素潜りでサンゴ礁を観察するなどして,小笠原を満喫することができた。

 蒼玄丸2度目の乗船となった1994年の研究航海には,卒研生1人を同行して,作業を手伝ってもらった。よく揺れた航海だったが,その卒研生は,私が船酔い気味で休み休み作業をしているときでも,揺れをものともしないでよく作業をこなしたし,食事もよく食べた。その姿を見た傭船元のある企業の担当者が,「是非我が社に就職して活躍してもらいたい」と本気でスカウトしたほどの働きぶりであった。残念ながら本人にはその気はなく,この話は下船と共に消滅した。

 蒼玄丸3度目の乗船となった1995年の研究航海は,蒼玄丸廃船前の最期の航海であった。つまり,この航海が終わると,蒼玄丸はドック入りした後,インドにある船舶解体場に運ばれてスクラップにされるとのことであった。蒼玄丸は,太平洋での最後の観測が終了し,一路,ドックのある鶴見に向かっていた。船内で試料処理をしていたところ,突然,ボースンの声で「煙突から火が出ている」との船内放送があった。後部甲板に出て煙突を見上げると,いつもは航走中に薄い黒煙を吐き出している煙突から,やや強い黒煙にまじってちょろちょろと赤い火が姿を見せていた。どうやら,煙突内部にこびりついた潤滑油に火がついたらしかった。火は間もなく消えたが,この火は蒼玄丸が別れを惜しんで流した「涙」だったように思えた。

 しばらくして,何かのテレビ番組でインドにある船舶解体場の様子が放映された。だだっ広い砂浜の上に,錆びて赤茶けた船体が多数廃墟のように林立していた。蒼玄丸の姿はないかと目をこらして捜したが,残念ながらその姿を見つけることはできなかった。

注)中井俊介氏の著作「海洋観測物語」(成山堂書店)に,旧白鳳丸の設計,製造,運行に関する著者の私的経験に基づいた解説がかなり詳しく記述されている。氏には旧白鳳丸KH-84-3次航海のときにお世話になった。氏の定年退職後にはほとんどお会いする機会がなかったが,2005年10月に訃報に接した。あらためて氏のご冥福をお祈りしたい。

(覚え書き[2006/11/1],未公表原稿)


本ページの作成者の連絡先は下記の通りです。
isshiki@cc.kochi-wu.ac.jp